「あなたは安全に狂う必要がある。」

これは『安全に狂う方法』の著者である赤坂真理が、精神科医から実際に言われたことで、非常に興味深い視点だ。

その方法が何かを知りたい方は、著書を読んでもらえればと思う。ただ、僕はそもそも人間はだらしなく狂っているのではないかと思っている。

そうでなければ組織や社会にルールやモラルは生まれていないのではないか。狂ったひとたちでなんとかやるために、人類は組織や社会という幻想を最高のプロダクトとして作り出し、維持する努力をしているのではないか。その努力を癒すために酒やタバコで精神を調整しているのではないか。組織を維持することは、本質的に狂った存在である人間にとって、とてもキツいことなのかもしれない。

とはいえ、僕は狂っていない。当然だ。

狂ってないと言えるし、言いたいが、狂っているひとが自分が狂っていないとは言えないだろう、と認識できるくらいには狂っていないし狂っている。

そうやって冷静さを維持しようとすることでどんどんひとはおかしくなるのだと思う。人間はどのような手続きで “常識” の外側にはみ出していくのか。そんな関心と怖さが、思考の奥底に沈んでいる。

では、どうすればいいのか。自分が狂っているかどうかを、自分で判断することはできるのか。

あるとき Journaling についての動画を見た。こうしたものや日記などは、自分に起きた出来事を書くものだと思い込んでいたが、別にそんなことをしなくても良くて、空想でもいいし、自分の感じたことを自由自在に書いていいらしい。

なるほどと思い、試しに毎朝 Journaling をすることにした。

朝、コーヒーを淹れて、仕事の前に前日のことを振り返る。「知り合いの発言にイラッとした」と書く。なぜイラッとしたのか。「実際に対応していないのに場当たり的な体験で断言したから」。本当にそれだけか。「思い当たる節もあり、図星だったかもしれない」。

書くことで冷静になり、多面的な思考が流れていく。

振り返りの最中に感じたことも付け加えていく。本当はしたかったこと、抱いた感情、自分の考察、行動への評価。誰にも見せないのでなんでも書く。

ひとは根源的になにかをつくることに喜びを感じる。おそらくそれは道具を使いこなす動物の生き残りだからだろう。Journaling を書くだけでも、そのつくり出す喜びを感じられる。毎朝これがあるのはとても健康的で健全な行為だなと感じる。

だけど、その記述は歪んでいないか?

あまりに個人的で狭窄的な視野で書かれていないか?自分に都合よく、自分を正当化するように、無意識に編集されていないか?

そうした疑惑をどうしても持ってしまう。自己分析は、分析する主体と分析される客体が同一なので危うい。狂っている人間が、狂っていない視点から自分を分析することなどできるのか。

しかし、人類は AI を手に入れた。

Journaling は誰にも読ませないが AI には読んでもらい、客観的に分析してもらうことにした。

分析されるというのは面白い。文章だけでメンタルの調子や人間関係を読み解いてくれて、1日の変化や思考や状況の整理をしてくれる。